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ギャラリー・マゴット主催「フォトショップ初級講座」

(09.2.10、講師 : カマウチヒデキ+川本亜矢)

カマウチが喋った部分の要旨

(事前に用意していたメモより編集。実際に喋った内容とは正確には一致しません)

[デジタルのせいで写真の質が落ちた?]

○写真の歴史っていうのは大体180年くらいあって、いろんな感剤が初期には使われたようですが、その歴史の大半は化合銀を使ったもの、いわゆる「銀塩」写真である。

○この銀を使う写真の時代がおそろしく長かったので写真の感剤の発達っていうのは、基本的に右肩上がり。環境問題的な側面から使う銀の量が規制されたり、という小さな逆行はあるが、粒状性をみても、感度的な話であっても、基本的には写真の感剤(印画紙やフィルムのこと)は、180年間ずっと右肩上がりに磨かれてきた。

○ところがここ数年いきなり銀を使った写真からデジタルの写真に、ほとんど一気に変わってしまった。

○デジタルカメラは、銀塩カメラの真似から始まった。銀を使うべき写真を、感剤なしで撮影するにはどうしたらよいか、というところからデジタルカメラは発想されている。 問題なのは、170年か180年積み上げてきた、銀塩写真というものの完成度を100とすると、一気にデジカメに変わったことによって、その頭のラインが急に50くらいに落ちてしまった、ということ。

○模倣が本物に追いつくのは、ちょっと時間がかかる、今はそのタイムラグのただ中にいる。

○例えば今のプロ用デジタル一眼のレベルは、ある側面から言えば、とっくに銀塩の6×9あたりの画質を超えているが、一般的に世に出回っている写真プリントの質、ということを考えたら、明らかに銀塩時代から一歩も二歩も後退している。 昔みんなが使っていたコンパクトカメラの画質に、今の一般的なコンデジは追いつけていない。

○じゃあ本当にデジタルのプリントは銀塩のプリントに比べて劣るのか?

[デジタルの利点/銀塩の利点]

○デジタルプリントの利点とは何か? これは何と言っても、今までプロラボやプリントショップに口頭で伝えていた、「もっと濃度を上げて」だとか「鮮やかに」だとか、そういう曖昧な要求を、心ゆくまで自分で調整できて、カラー写真でもプリントの仕上がりに責任が持てる、ということに尽きる。

○モノクロの時代はみんな自分でプリントして、その品質にちゃんと自分で責任をとっていたのに、カラーは自家処理がちょっと難しいために、外注に頼らざるを得なかった。

○ネガプリントっは表現の自由度が大きいから、当然プリントするラボマンの技量に左右される。下手くそが焼くと下手くそなプリント。上手な店に任せれば素晴らしい出来に。だけど、どういう風に焼いてくれ、という指示が、とても難しい。

○ラチチュードの狭い、不自由なポジフィルムが使われたのは、少なくとも仕上がりに他の人の手が入らない、責任的に自己完結できるということだろう。

○モノクロのみならず、カラーでも、ネガフィルムってのは、ものすごくラチチュードの広い、ある意味理想的な感剤。今のデジカメ的な言い方をすれば、ダイナミックレンジが広い、ということ。

○以前に比べてデジカメのダイナミックレンジは広くなった。 ダイナミックレンジとは一番黒い部分から一番白い部分まで、表現できる階調の幅のこと。ネガフィルムはこの階調の幅がすごく広い。 一枚のネガから、わざとアンダーなプリントを作ってもシャドウ部が潰れることがないし、逆にハイキーなプリントを作っても、かなりな部分までハイライト側に階調が残る。

○この階調の幅のことをラチチュードと言う。ネガフィルムはラチチュードが広い。 ポジフィルムは狭い。すぐに白飛びするし、黒潰れする。

○デジカメも同じ。ラチチュードが狭い。とくにコンデジは狭い。ダイナミックレンジというのはCCD一個一個の大きさに関係するので、コンデジみたいなCCDの小ささでダイナミックレンジを広げるのは土台無理。

○最近はキヤノン、ニコン、ソニーから、35ミリフィルムと同じ大きさの受光素子を持つデジカメが発売されているのでラチチュードもかなり広くなっているが、でもネガにはとうてい及ばない。

[ラチチュード]

○銀塩がデジタルよりいい理由、ってのを、ちゃんと知らずに銀塩をやってる人が多すぎるな、というのが正直な感想。銀塩の優れたところは、わけのわからんノスタルジーの部分にあるのではない。ラチチュードの広さ、これに尽きる。これがデジカメにはない部分。

○経験上、1段アンダーから3段オーバーまで、適性露出に4段の幅がある。4段、つまり2の4乗、光の量に16倍の差があっても大丈夫ということ。 ネガの良さってのは、めちゃくちゃダイナミックレンジの広い「アナログCCD」である、ってこと。

○ネガにはもの凄く幅広い階調の幅があるので、1枚のネガから、すごくハイキーな写真も作れるし、アンダーなプリントも焼ける。 デジカメでもフォトショップで明るさの調節やコントラストの調節が出来るが、ネガほどダイナミックレンジが広くないので無理が出てくる。階調が崩れてしまう。画質が著しく劣化する。

[綺麗なプリントとは?]

○わかりやすく、モノクロの話に単純化して考えれば、モノクロプリントというのは、何も露光しなければ真っ白(紙の地色)完全に感光させてしまえば真っ黒。 この真っ白と真っ黒の間に、すべてのトーンを配置すること、真っ白から真っ黒まで、すべてのトーンを印画紙上に再現出来ているプリントが美しいプリントとされる。 もちろん例外はあるし、わざとそれを崩すこともある。 しかし基本は、「一番くらい部分から一番明るい部分までを、印画紙の再現能力の幅に一致させること」。

○これはカラーネガのプリントでも、デジタルでも通用する基本。

[顔料インクジェット]

○現在カラー画像に関して言えば、顔料インクジェットで出力するのが一番だと思う。耐候性に関してダントツのアドバンテージがある。

○銀塩カラーは保存が悪ければ数年で色抜けする。エプソンの顔料プリンターはメーカー公称200年耐久。実際に光や水分に対して強いのは実験済。

○銀塩、インクジェット問わず、色の劣化を一番促進するのはオゾン。オゾンを遮断するために樹脂系スプレーの吹き付けを推奨。 商品名で言えば「コンドール・ジェット」「プリント・ガード」等。一般用のトリパブCやフィクサチーフも、やらないよりマシ。ワセリンやカルナバ・ワックス、スプレー式油性ニス等も、実験上、問題なし。

[ヒストグラム]

○デジタル写真で、まず覚えてもらわなきゃいけない最低限のことは、解像度の話と、ヒストグラムの話。 この二つは絶対に理解しなきゃ駄目。デジタル写真の基本中の基本。

○デジタル写真は、黒から白への階調を、256段階で記録する。一番黒いところが0、一番白いところが255。計256階調(8bitの場合)。 これはデジタルの基本中の基本。

[トーンカーブでのコントラスト調整(実演)]

[色調補正・コントラスト調整・濃度調整の実演]

[調整レイヤーの説明] [8bitと16bit] → (できなかった)

[画像解像度の話]

5616*3744 EOS-1DSmk3 (2100万画素)360dpiで半切近く

4992*3328 EOS-1DSmk2 (1660万画素)300dpiで半切近く

3648*2736 GRD2 (1000万画素)360dpiで六切(A4)300dpiで四切

[RAW現像の話]

[適性露出とは?]

○アナログとデジタルで一番変わるのは、適性露出の考え方。ネガだと、画面の内で一番表現したい部分、ポートレートだったら顔の部分、風景だと、その画像の核になる部分、そこを適性露出にしておけば良かった。わかりやすくポートレートだと、背景に空が写っていたとして、顔にスポット測光で露出を合わせれば背景は白く飛んで写る。でも銀塩なのでデジタルほどは激しく白飛びしない。ハイライト側の階調はデジタルと比べものにならないくらい豊か。

○デジタルカメラで撮影するときは、まずは「収める」という考え方になる。 黒をつぶさず、ハイライトを飛ばさず、ヒストグラムを0から255の中に収めておいて、後からトーンカーブで中心の位置を調整する。

[以後、川本さんのレイヤーを使ったレタッチ実演講座]

・・・・・・

[おまけ]

以前、PUU氏のウェブサイトのBBSで連載(?)していた「カマウチのフォトショップ裏技講座」を、PUUさんが自分のサイト上に編集した頁があります。

http://puu.rash.jp/GALLERY/newpage4.htm

よろしければここも参考にしてください。

[まとめ、みたいなもの]

フォトショップはデジタル写真の調整ソフトですが、デジタルのみならず、銀塩を含めた「写真」の理屈を考える上で非常に有益なもの。

ヒストグラムやトーンカーブ自体は銀塩の時代からフィルムの特性曲線等で使われてきた考え方と似ているし、デジタルで数値化してみてはじめて気がつく銀塩の理屈、というのもあると思う。

フィルムと印画紙がある限り銀塩で、と考えている人でも、フォトショップを学ぶことは決して無益ではない。却って銀塩を深く考える契機にもなると思う。

以上

井上先生

以前にも何かの折に書いたけれど、僕は大学を2年で中退している。
正確にはとりあえず休学にして正式に学籍を抜いたのはその2年後なのだが、まぁ実質2年。
勝手に入って勝手にやめた大学の悪口を書くのも品の良い話ではないから理由はくだくだ書かないが、とにかく「合わなかった」。
だからほとんど講義には出なかったし、学校に行っても大学図書館にこもっているか、学生食堂で煙草を吸っているか。

そんな短い僕の大学生活だったが、唯一「社会思想」という講義だけは無欠席で通った。
講師は井上和雄先生という、僕の通っていた某O大の教員ではなく、神戸商船大学の経済学教授だった方だが、なぜか週1回、O大で社会思想の講義を持っていた。
経済学の教授がなぜ社会思想の講義なのかも面白いが、アダム・スミスに関する著作があるので、そのあたりのオーバーラップする分野が本来の専門のようだった。

この井上先生の講義は面白かった。古代ギリシアから始まってソクラテスからアダム・スミスまで、社会思想通史のような内容なのだけれど、雑談半分みたいな感じの、その雑談部分が、こんなことを言うと失礼かも知れないが「性(しょう)にあった」のだ。
別に百人が押し寄せる人気講義というわけでもなく、受講者も十数人で、僕のように「毎週楽しみにしている」という風な人も他には見受けられない気がしたけれど、少なくとも僕にはめっぽう面白かった。
講義の内容ももちろん、雑談部分の語り口とか、人柄的な部分に惹かれて毎週楽しみに通った。

井上先生は上記アダム・スミスに関する著作や、後年ヘーゲルに関する本も書いておられるようだが、実はそういう専門分野の外でけっこう有名な人なのだ。
ブタペスト・カルテットをもじったブタコレラ・カルテットというアマチュアの弦楽四重奏団で演奏活動を長くやっておられて、『モーツァルト心の軌跡』(音楽之友社)という著作でサントリー学芸賞を受賞している。
そ の後『ベートーヴェン闘いの軌跡』『ハイドンロマンの軌跡』と三部作になる「弦楽四重奏が語るその生涯」シリーズの、ちょうど二冊目のベートーヴェン篇が 出るか出ないかあたりの時期に講義を受けていたので、社会思想史の講義の合間に出てくるモーツァルトやベートーヴェン関連の話が興味深かった。ちょうどク ラシックをよく聴いていたころでもあったし。

テスト替わりの小論文で、テーマが「プラトン『ソクラテスの弁明』を読んで、ソクラテスはア テネ市民に何を訴えたかったのかを考えなさい」というものだったので、その頃よく読んでいたシモーヌ・ヴェイユだとか田川建三だとかを引き合いに出して、 かなり真剣に文章を書いて提出したら、講義で名指しで激賞してくださった。
どこかにその時の文章をしまってないかと探したが、まぎれてしまってわからない。
何書いたんだっけか。出てこないかなぁ。

結局翌年もその同じ講義に出続けた。2年目の最初の講義で、しゃあしゃあと前列に座っている僕を見て、
「あれ? 鎌内君、去年単位あげたでしょ」
「はい。聴いちゃいけませんか?」
「別にいいけど、これに出たからってもう単位はあげられないよ」
「わかってますよ。邪魔しないように聴いてます」
「まぁご自由に(笑)」

・・・・・・

結局、その年を最後に学校をやめたので先生ともそれっきりだったが、数年後、大阪いずみホールでアルバン・ベルクだったか、弦楽四重奏団の来日公演を聴きに行ったとき、ロビーでばったり先生と再会した。
大学をやめたと告げると、先生は大笑いをして
「大学の教師をやってる僕が言うのも何だけど、大学の教員と自動車教習所の教官にはロクな人間がいないんだ。あんなとこから何も学ばなくていいよ。ははは、やめたのか。まぁいいんじゃないかな。勉強くらいどこでもできるし」

以来、年賀状のやりとりしかないけれど、お元気だろうか。あれから20年たつので先生も七十近いはず。

たまたま『ロンドン音楽紀行 』(神戸新聞総合出版センター)という井上先生の著作(10年以上前の本だけど)を最近見つけて買ったので、なつかしく当時のことを思い出したのでした。

プロの書店員

かなり前の話だが、本を注文するためにジュンク堂三宮店のカウンターに行った。 
まだ地下に売り場があった頃だから、もう随分昔の話か。10年くらい前かもしれない。 

書名、著者、出版社を書いたメモを持っていたのだけれど、カウンターの女性の店員さんが「どんな本ですか?」と聞くので、ついメモを見せる前に口で簡単に書名を喋った。 
「エリザベス・スティーブンソンって人の本で、ラフカディオ・ハーンの評伝なんですが。ええと、出版社がコウブンシャ」 
僕がメモを渡す前にその女性の店員さんは手元のメモにサラサラと、 
「スティーブンソン、ハーン、恒文社」 
とメモをとり、 
「一応在庫を確認します」 
と一直線に、ためらいもせず、僕がもといた方向へ歩いていった。 

その前に僕はちゃんとその本があるべき書棚に行って、ないことを確認しているのだが、どうせ「なかったですよ」と告げてもその店員さんは確認しに行くだろうし、もしかしたら僕が見落としている場合もある。 
そのままその店員さんが帰ってくるのを待った。 

しかし、この時点でもう僕は猛烈に感動しているのである。 
ラフカディオ・ハーンの本が広いジュンク堂の中のどの書棚にあるかくらいは店員なんだから知ってておかしくない。そこへ一直線に歩いて行ったことくらい、不思議でもなんでもないだろう。 
しかし僕が口伝えで言った「コウブンシャ」を、彼女は「光文社」と書かずに、「恒文社」と正しく、しかも瞬時にメモったのだ。 

普通「コウブンシャ」といえば光文社だろう。出版社の規模として、光文社は恒文社と比較にならないくらい大きい。 
しかしラフカディオ・ハーンの本を多く出版している「コウブンシャ」は「恒文社」なのである。 
あの店員さんの頭の中にはちゃんと 
「コウブンシャには光文社と恒文社がある」 
「ハーンの本を出しているのは恒文社である」 
という知識があって、僕のような客の突然の質問に、正確にその知識を動員しているわけである。 

実はジュンク堂に来る前に、すでにもう一軒の本屋に寄ってきたあとだったのだ。 
そのS書店はジュンク堂の近所に同規模、もしかしたらもっと広い売り場面積で華々しく開店し、なんでも「どんな本を読んだらいいかお薦めしてくれる相談員がいる」とか、強力な検索システムがあるとか、そういうことを売り文句にしていた。 
強力な検索システム、なんていうから、本を注文しても届くのが早いんじゃないかと、勝手に想像したわけ。 
ところが検索カウンターへ行くと、五十年配のおじさん店員がぽつんと所在なげに座っていて、僕が差し出した「E.スティーブンソン、評伝ラフカディオ・ハーン、恒文社」のメモを見て、右往左往しながらキーボードに入力するのだが、慣れてないせいですぐにミスタッチして、いつまでたっても検索が始まらない。 
あげくの果てに「恒文社」で検索しようとして「光文社」を出してしまい、数百冊の検索結果にただ呆然とするばかり。 
「もういいです」 
メモをふんだくって、僕はS書店を出、ジュンクに向かい、話は冒頭に戻る。 

おじさんのパソコン不慣れを責めているのではない。 
あのおじさんがあのカウンターに座っているのが間違いなので、もしかしたら慣れた人が昼ご飯でも食べに行っていて、おじさんはピンチヒッターだったのかもしれない。 
しかしそれだけ手薄で「強力な検索システム」なんて誇ってていいのか、という話である。ええかっこすんな、と。それだけのこと。 
華々しい売り文句に対するギャップの大きさに腹を立ててしまっただけなのだが、書店がしてもいい「ええかっこ」とは何か、と思わず考え込んでしまったのだ。 

かっこいい書店って何だろうかと考えたときに、そんな見かけ倒しのサービスなんかどうでもいい、ということなのだ。 
一瞬で光文社と恒文社を区別し、的確にハーンの書棚に直進していったあの女性店員さん。あれがプロの書店員というものだろう。 
光文社と恒文社を区別した、という事実のみでそう判断するのではない。あれは絶対に丸暗記の結果の知識ではない。全身から「本が好きで好きで仕方がない」というオーラが出まくっていた。好きで好きで仕方ない結果の知識のはずだ。だからかっこいいのだ。 

後日仲良くなったジュンク堂の別店舗のスタッフにその話をしたら、「ああ、多分○○さんだと思う」とすぐに答えが返ってきた。さすがにジュンク堂の中でもとびきり優秀な人だったわけだ。 
その仲良くなった店員さんも、その○○さんに仕事を教えてもらい、書店員のプロとして○○さんを一番尊敬しているのだと言った。 
そういうオーラは周囲の店員さんにも伝染していく。 

のちにジュンクの大阪本店が出来たばかりのとき、まだ慣れていないスタッフが多いと思われる中、同じようにとある本の注文をカウンターでしたら、若い女性店員が「一応在庫を調べて参ります」と出て行って、10分も20分も帰ってこない。 
いい加減待ちくたびれて多少腹が立ってきたが、しかしくそ真面目に棚の端から端まで本を探している姿を見たら、なんか許せる気になってきた。 
融通がきかないくらいくそ真面目な彼女が、もしかしたら数年後、○○さんのような凄い書店員になるかもしれない。 
もう数年前の話だから、すでに凄い店員に育ってたりして。顔覚えてないけれど。 

少ないサンプル数で統計的にはまったく有意ではないかもしれないが、こういう経験は忘れられない印象を刻むものである。 
A屋にもK屋にもB1屋にもそういうかっこいい書店員がいるのかもしれない。 
が、その○○さんに敬意を表して、大きな声で言わせていただきたい。 

やっぱり本屋はジュンク堂だねっ!

いい医者って?

小さく生まれたヒナコを5ヶ月の入院中ずっと診てくれたC病院小児科のY医師に、僕は全幅の信頼を寄せている。そういう態度はたぶん、顔にも表れるのだろうと思う。

ヒナコの足の治療(ヒナコは左足の先天性脛骨列部分欠損という珍しい症例なのだ)のため大阪のB病院に紹介状を書いてもらおうとY医師を訪れたとき、僕の「B病院のK先生って、すごく評判を聞きますけど、そんなに凄い先生なんですか」との質問に、Y先生は以下のように答えた。

・・・・・・

その医師が「ええ先生かどうか」っていう判断は、人によっていろいろあるでしょう。

たとえば僕(Y医師)はええ医師かどうか。

僕は、患者さんからは気さくで話しやすいとか、そういう風に言われますけど、これは僕の師匠にあたる先生の影響をね、やっぱり受けるんですわ。僕の師匠がこういうタイプやったんです。知らんうちに話し方とか伝染するんやね。

悪く言うたら、演じてるわけですよ。ざっくばらんな医者、ってやつを。

たとえば、こないだ定期検診に来てたヒナコちゃんを廊下で見て、「あ、今日は検診ですか。ヒナコちゃん大きぃなったなぁ」って声かけますよね、僕。

それは、百人いる僕の患者を、僕が全部覚えてるから、っていうんじゃない。カマウチさんにとって僕はたった一人の主治医かもしれんけど、正直、ヒナコちゃんは、僕にとっては百人の患者のうちの一人です。今朝パソコンを見て、あ、今日は誰々が検診に来るねんな、って予習するから、『あ、ヒナコちゃん』って名前が出てくるだけです。冷たいようやけど、そんなもんです。

カマウチさんは僕をそれなりにええ医者やと思てるかもしれんけどね。ええ医者かどうかっていうのは、そういうところで判断するもんやないです。

じゃあB病院のK先生はええ医者かどうか、っていう話ね。

まず、K先生も僕も外科を勉強して来た医師です。でも僕は今ここで小児科の手配師(小児科の部長のことを自ら揶揄してこう言う)みたいなことやってますが、何も最初から小児科に来たかったわけやない。外科っていうのはものすごい広範な分野やからね。自分で何がしたい、って言うても、なかなか希望通りの道は歩かれへん。まぁいろんな事情が重なって、僕は流れ流れてここへ来たわけや。

でもK先生は、最初から小児整形の勉強をして、小児整形一本で来た人です。

正直ね、小児科って、最近テレビでよくやってるから知ってるでしょうけど、誰も好んでやりたがらない分野です。産科と小児科はね、ほんまにしんどい仕事ですわ。

でもK先生は僕なんかと違って、はじめから小児整形をやるために勉強を積んで来られた方です。そんな人、なかなかおらへんね。

とにかく、見栄えとか、そういうことやなしにね、患者さん本人にとって、何が一番大事なことか、っていうのを考えな駄目でしょ、医者って。

たとえば手の親指のないお子さんが生まれたとして、やってみたらわかるけど、人間ってね、親指がなかったら物をつかめんのです。残り四本の指では力が入らんのです。

で、K先生はどうするか。肋骨の端っこの骨を少し削って親指のあるべき場所に移植して、ちょっとした突起を作った。 これでね、物をつかむ、っていうことがめちゃくちゃ楽になるんですわ。親指のあるべきところに、その突起があるかないかで。

そういう工夫をね、ずっと考えてるような先生です。整形の世界って、ほんま、そういったアイデアが出るかどうか、ってことなんです。

そういう意味で、K先生は非常に優秀な医師です。 答えになってますか?

・・・・・・

このY医師の言葉を聞いて、K医師が「ええ医者」だというのがよくわかった。 で、やっぱりY医師も「ええ医者」を演じてる、本当にええ先生なのだと、ばれちゃいまいたよ(笑)

(blog)



薬棚には薬が必要


島田紳助の司会でやってる『深イイ話』(日テレ)を、半分アホらしいと思いながらもたまに観ている。
アホらしい、というのは、出展のはっきりしない話を視聴者からの公募で集めてたれ流しで放送して、なんか責任逃れをしているようなユルさに対しての批難である。

たとえばスナフキンが「人を崇拝しすぎちゃいけないよ。かえって自分の心が不自由になるから」なんてセリフを言った、う~ん、深くてイイ話だ、心のレバーをグイッ・・・まぁ、スナフキンのこのセリフはたしかに良いけれど、どうしてこれを視聴者からの投稿という形で伝えねばならないのか。どうせ伝えるならば、このセリフは第何回のムーミンアニメの第何話で、もしくはトーベ・ヤンソンの原作の第何巻で、どういう場面でスナフキンが誰々に向かって言ったセリフである、というフォローは当然必要だ。

ある逸話を、どの文脈で、どういう切り取り方で伝えるか。やりようによっては原作者の意図をねじ曲げる結果になることもあるだろう。いや、意図してねじ曲げるくらいテレビ局の常套手段なのであるから、そういう部分を「視聴者投稿」に責任転嫁するやり方が、どうにもこうにも腹が立つのだ。
ていうか、本当に視聴者投稿なのか? とまで勘ぐってみたりもして。

まぁ、出てくる話が実にたわいもない話ばっかりなので今のところブーブー文句を垂れるほどのこともないのだけれども。

しかしこの前、この番組で不覚にも黒澤明ネタで感動。
『赤ひげ』撮影中に、セットの薬棚(引き出しの中は外から見えない)に、ちゃんと薬を入れていないじゃないか! 撮り直せ! と黒澤明が怒ったという話。
川合俊一の「ああ、わかるわかる。バレーの試合でも、どんなに走っても絶対に追いつかないってわかってるボールにさ、無理だってわかっててもチームメイトが走っていって、頭から行って、やっぱり全然届かない、とかあるわけですよ。あいつ絶対に届かないのに頭から行っちゃったよ、てのが、同じチームの人間のテンションをぐわーっとあげちゃうわけですよ」という熱血フォローも妙に合ってたし。

こんな番組に感銘を受けてよいのか、と若干苦々しく思いつつ、画面に映ろうが映るまいが、薬棚には薬がなくてはいけない、という黒澤明に、思わず心のレバーを前押ししてしまった私だ(完敗)。
僕は別に黒澤明の熱心なファンではないけれど、もう一度代表作全部見直してみようか、なんて思いましたもん。

話を写真に置き換えて考える・・・・なんてことはしない。川合俊一以上の比喩を出せる自信がないから(笑
でも「薬棚には薬がなくてはいけない」なんて、ふと気がつけばつぶやいていたりして。

そうだよねー。薬棚には薬が必要なんだよ。ぶつぶつ。ぶつぶつ。

(kamauchi BBS)


表面以外


写真っていうのは表面しか写らない。

人の「内面を写す」とか、そういう甘っちょろいことを考えてはいけない。

写真ってのはそういう大層なものではない。

大体内面って何だよ、とか思うし。

そんな、写真一枚で「表現」できてしまうような薄っぺらい人なんていない。

いるかもしれないけど、そんな人の写真が面白いかどうかわからない。

写真は瞬間しか写らないが、人って瞬間瞬間を拾って語れるものではない。そういう無数の瞬間の連続であり、寄せ集めであり、混沌であり、総体であり、部分である。

そんなわけのわからないものの、ほんの一瞬を切り取っただけのことに、どうしてそんなに過剰な意味づけを求めるのか。

瞬間なんて、たかだか瞬間でしかないんだぞ、ということを確認したくて撮るのが写真なんじゃなかろうか。

と、常々思っているんだけれど。

・・・・・

「そうだよ写真は表面しか写らないんだよ。だからその表面を頑張って綺麗に撮ってあげるのよ」

と何かでアラーキーが言ってた。

・・・・・

杉浦日向子の、死ぬ数ヶ月前のポートレートがある。

撮ったのはアラーキー。

杉浦日向子の「表面以外」が写ってるような気がしてしかたがない。

いや、写っている。

100年に1枚の写真だと思う。

凄すぎて、他の杉浦日向子の写真が後ろへ吹っ飛んでしまう。

杉浦日向子といえば、もうこのポートレートしか思い出せなくなってしまう。こういうのが写真の怖さなんだな、と思う。

でも、アラーキーにお礼を言いたい。

こんな凄いポートレートを残してくれて、本当にありがとう。

*(白水社『写真ノ話』、スイッチ・パブリッシング『空事』等に収録)

(初出:OK, Darling. But What is Photograph?