kamauchi hideki

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風景とは何か。いつもそう考えながら風景を撮っている。
結局風景とは見られる前からそこにあるのではなく、僕が見たことによってそこに立ち現れる、世界と僕との共謀の産物である。

光の原理的なことを考えれば、僕らは光源の発した光を何かが全方向へ反射する、そのうちたまたま僕らに向かって直進してくる光だけをとらえて視像を得ている。
風景なんてたかだかそれだけのことであるとも言えるし、僕らが触れることの出来ない広がりをその後ろに持つのだと考えることも出来る。

全方位に逃げていく、我々の網膜に直進しない風景のことを考えてみる。自分の網膜と、写真機の網膜に相当するフィルム面に、たまたま届いた光と、その後方にある届かなかった多くの光について考える。

出会うこと、それを見ること、それがフレームとして切り取られ、写真機を通してある種の定着を得ること。いかにも「捕獲」的な手順を踏みながら、しかし捕らえられたものは捕らえたと思った次には全方位から網越しに捕り(撮り)手を見つめ返す。
「捕獲」など思い上がりだと知る。すべての風景は「垣間見えて」いるだけである。

それを考えながらシャッターボタンを押す。写らない他の全方位のことを感じながらシャッターボタンを押す。

そういう「風景」の仕組みが面白く、また恐ろしい。

味覚

最寄りのT駅の北側、賑やかな南側とは対照的に場末感全開の寂しい商店街(? と言っていいかどうか)の一角に、そう、古いといっても創業明治何十何年、みたいな風格があるわけじゃなくて、中途半端な、創業推定昭和50年、って程度の古さの大衆食堂がある。
たまに前を通るたび、この「中途半端な古さ」が気になって、変色した蝋細工の「焼きめし 500円」にソソられ、いつか機会があれば食ってやろうと思っていた。

風邪の症状がちょっと変わってきたので今朝も病院に寄って薬を替えてもらったのだが、病院と薬局で順番を待つうちに昼近くになってしまい、ちょうどいい、早く薬も飲みたいし、あの食堂で焼きめしを食ってやろうと、開店直後の食堂に入る。

和・洋・中なんでもありのメニュー構成で、厨房の中には推定50代後半の親爺が一人、ホールにはその母とおぼしき80歳くらいの婆さんが一人。
迷いなく「焼きめし」を頼む。
こういう店は丁半勝負である。
うまいか、まずいか。
親爺、大きな中華鍋を取りだして火を入れる。お、一応中華鍋で作るのか。豪快に火柱が上がる。期待していいかも。

よたよたと婆さんが焼きめしを運んでくる。コトン。
「お待ちどうさん」
「・・・・」
食う前にわかる。油ベチョベチョやん!
食う。
やっぱりまずい。

・・・・・・

たまーに、こういう食堂ってあるよね。親爺さん、なんで食堂やってるのん、みたいな。
前 に職場の近所にあった沖縄料理屋は、なんていうか、ほんと笑っちゃうくらい料理のセンスのないおじさんが作っていて、たとえば「カラス豆腐」(冷奴の上に アイゴの稚魚=スクの塩辛を乗せたもの)を頼んだら、冷奴にスクを乗せて、さらにカツオブシと醤油をかけて出してくる。
塩辛いスクを素の豆腐に載せて食うから美味いのであって、カツオブシと醤油なんかかけたらブチこわしなのである。こんな濃いもの食えんのである。
「おじさん、カツオブシと醤油いらんの違う?」
「そうかねー。味気なくないかねー」
この塩辛いスクを「味気ない」という味覚で料理屋をやっちゃいけないと思うのだが。

この沖縄料理屋では三線教室もやってるとかで、店に三線が何本か転がしてあった。
酔ったカマウチはその三線を取り上げてりんけんバンドの「肝(ちむ)にかかてぃ」なんかを弾き語りしてみたら「お、兄ちゃんうまいね」などと誉めてくれる。
「どこで習った?」
「昔玉造にあった、めんそうれっていう沖縄料理屋で、そこの娘さんが弾いてるのを見よう見まねで覚えた」
「めんそうれ。ああ、オオタさんの店か」
「オオタさん知ってるの?」
「ああ、料理の上手い人だねー」

あのね、おじさん、普通料理屋ってのは「料理の上手い人」がやるもんなの!
本気でズッコケましたよ。

その料理の下手な沖縄料理屋のご主人は、何年か前に突然心筋梗塞か何かで倒れ帰らぬ人となった。当然店もなくなった。
下手くそ、マズい、といいながらも何回も通いたくなる、そういう「愛嬌のあるマズさ」の店だった。実際何度も通ったし。

三線教室をやるくらいだから上手いのかと思って
「おじさんナークニー弾いてよ」
「ナークニー面白くないよ」
「仲順流りとかは?」
「気分じゃないね」
とかいって、いつも自分のオリジナルだという演歌みたいな歌を三線かき鳴らして歌うのだった。結局あの歌しか聴いたことないよ、おじさん。

ああ、あのマズい沖縄料理をもう一回食べたいなぁ。
なんてことを思い出してしまった、今日の大衆食堂の焼きめし。
しかし、あれは愛嬌もへったくれもないマズさだった。
(http://kamanekoblog.blog58.fc2.com/blog-entry-291.html)




雨の日

先日、雨の日の朝、女子学生たちが10人ほど、全員学校指定らしい同じグレーに赤のラインのレインコートを着て自転車に乗って僕を追い抜いていった。暗い 雨空の下、続々と通過していくグレーの集団の後ろ姿が妙に幽玄で映像的にとても美しく、撮ろうと思ったが、雨なので鞄にカメラをしまっていて撮れなかっ た。

雨にけぶって消えていく背中を見送りながら、最初は「写真には撮れなかったがとてもカッコイイ映像を見た」という満足感があった。が、その後 ふつふつと、写真に撮れなかったことに対する悔しさが頭をもたげてきた。この悔しさは写真的な功名心なのではなく、あのかっこいい映像を誰とも共有できな い悔しさなのだと思う。

あのときばかりは、ほんとうに画家に嫉妬した。あのカッコイイ映像を、あとからキャンバスに定着できる。でも写真はそこでシャッターを切らないと何も残らない。雨だからとカメラを鞄にしまっていたのは、もう写真家としてどうなの、という話なのである。
雨 中のレインコート+自転車、という要素だけをいうならば、野口里佳が『PHOTOGRAPHICA』最終号に掲載していた天才的な写真が先にあるわけで、 もし仮に僕があのときカメラ持っていたとしても(映像的にはまったく別物なのだけれど)なんとなく発表には躊躇したかもしれない。

でも、あれを誰かに見せたかったなぁ、という残念な感じが、いつまでもいつまでも抜けないでいる。

ガリョウテンセイ

小学生の頃、僕はわりと絵が上手かった。
田舎に帰った折、親戚のおじさんが若い頃描いたという映画スターの似顔絵(きちんとしたデッサン)を見て対抗心を燃やした小学校6年生の僕は、手近にあった雑誌に出ていた仲代達矢の写真を見てノートに鉛筆でデッサンした。
かなり時間を掛けて、自分では上手く描けたと思ったが、それを見た祖父が「あかんぞその絵は。眼が死んどる」と言う。いやそんなことはない、どこから見ても仲代達矢そっくりの、ちゃんとしたデッサンではないか、と僕は納得がいかない。
「学校でガリョウテンセイって言葉を習わんかったか? なんか上手く描いたような絵やが、眼がな、死んどるわ。そこがいかんわ」
た ぶん絵の技術的なことなど祖父にはわからなかっただろうが、おそらくその仲代達矢の絵には、半端な器用さに慢心したクソガキのいやらしさのようなものが滲 み出ていたのだろう。技術的に眼の輝きが描けていない、とかいう話ではなく、そういう幼稚な驕りのようなものをたしなめられたのだと思う。
当時はわからなかったが、今ではそう想像がつく。


レッドホットチリペッパー


種村季弘『書物漫遊記』(ちくま文庫)を読んでいたら、こんな話が出てきた。
種村の友人のインド文学者松山俊太郎という人が、普段から荒行のように唐辛子を摂取する人で、東京で一番辛いというインドカレーの店で「こんな甘ったるいのが食えるか!」と文句を言った。するとコックの目が怪しく光り、「ようがす」と奥へ消えた。そして出てきた新しいカレーを松山はきれいに食べ終わってから「ありがとう、これがカレーです」と言い残して店を出たのだが、あとで聞いてみると松山は「いや、実はさすがにあのときは心臓が止まるかと思ったよ。それよりあれから一週間位、耳鳴りがガンガンして止まらなくなっちゃったのには吃驚したね」

こういった「辛けりゃカレー」という貧しい発想の人は嫌いである。唐辛子を大量に摂取できることをさも英雄的行為のように思っている人間がいるが、そんなやつは一週間耳鳴りでも何でもして苦しめばいいのだ。
僕は昔梅田の某インド料理屋で働いていたのだけれど、そのときもこういう客がいた。
「この店で一番辛いカレーをくれ」
そのときホットチキンという相当辛いカレーがメニューにあったのでそれを出すと、「全然辛くないやないか。もっと辛いのはないのか」と文句をいう。「明日も来るから考えておけ」と。
コックのビシャンシンさんが困ったような顔で「ああいう客、嫌い」というので、
「明日は今日の3倍くらいレッドペパー入れてやったら?」
で、ビシャンシンさんは次の日、本当に3倍レッドペパーを入れて出した。しかも薬研でゴリゴリ挽きたてのやつを。ところが
「まだまだ辛くない。こんなもんじゃ満足でけんな」
とそのオッサンはまだ文句をいうのだ。
僕もビシャンシンさんも腹が立ってきた。そんなに唐辛子が好きなら鷹の爪でも何でも丸まま囓るなり、タバスコ一気飲みするなりすればいいのである。ここはインド料理を出す店であって、唐辛子ペーストを食べさせる店ではない。インド料理は、そりゃ辛い料理もあるけれども、実際全然辛くないカリーも多いし、唐辛子の辛さばかりじゃなく、いろんなスパイスの香りや味を楽しんでもらいたいと思ってコックさんも腕を奮うわけである。それをあの唐辛子バカは!

翌日、僕は素晴らしいアイデアを思いついた。
「ビシャンシンさん、あの客のカリー、今日の味付けは僕にやらせて」
「カマちゃん、どうするの?」
「うひひ」
その日も鼻息荒くその客はやってきた。
「今日は期待してるで」
薬研で挽きたてのレッドペパーを昨日と同じく3倍量、ホットチキンカリーにブチ込む。そして、さらに、普通の3倍量の「塩」をそこへ放り込んでやった。
「・・・・!」
客は呻きながら、その「塩3倍」ホットチキンカリーを食っている。昨日までと違って顔には脂汗が浮き、目を白黒させている。唐辛子の辛さは我慢できても、塩の辛さは我慢できない。
しかし客には客の意地もあるようで、まぁ天晴れなことに彼はなんとかその皿を平らげ、目を充血させながらレジでこう言ったものである。
「き、きょうのはやっと手応えあったな。さ、さすがや・・・・」
僕とビシャンシンさんはがっちりと握手をした。
その日を最後にその客は二度と店に姿を現さなかった。
(blog)

『叙情寫眞』タイトル会議(中村浩之+カマウチヒデキ)2009.9


■写真は「表面以外」も写せるか

カマ 写真は「表面以外」も写せると思いますか?

中村 写せると言えば写せるし、写せないと言えば写せないのでは。私は写真をコトバ的なものととらえています。撮影者、被写体、鑑賞者、etc.の間に生まれる関係=コトの端部=ハが、写真ではないかと。支持体上に現像・定着された画像は、それだけでは唯の単語のような物でしょう。むしろ写真における「表面」以外は、写真の内には無くて、コトバを成すヒト・モノ・コトの内に生ずるのでは? 一語に何らかの期待を込めて放つ事で、それが誰かに伝わるならば、写真にも同様なことが言えるような気がします。

カマ コト、の定義がわかりにくいですけど、なんかすごくいいですね。撮影者、被写体、鑑賞者、と三つ巴にしたところが斬新かなぁ。撮影者ー被写体、の関係はよく考えるし、撮影者ー鑑賞者の関係についても考えるけど、三つを相関させては、なぜか考えないんですよね。三つ全部取り込んでコトの端を交換するさまが、なんかいいなと思います。

中村 カマウチさんは写真をどのようなものと考えていますか?

カマ 写真はあくまで、僕と世界の交信手段です。世界のとらえ方、感じ方について、撮り続けることで関係を更新しているんだと思います。
写真は100%自分の意志通りには写らないし、偶然を味方に付けることができるし、常に不確定要素がある。その不確定な要素が、自分の凝り固まった意識を壊すきっかけになってくれる。それが写真の魅力で、壊しては作る、という作業のサイクルが早い。絵画は制作に時間がかかるし、自分の意図しないものが入りにくいので、このサイクルの早さは写真の最高の利点だと思う。よくわからないので安易に「美意識」という言葉を使ってますが、この美意識(仮)ってやつは、世界を判断する基準になると同時に、認識を枠にはめてしまうやっかいなものでもあります。美意識(仮)を壊しては組み直す、いたちごっこのような「更新」が精神には必要で、それを自分で見つめるのに、写真がうってつけだと思うんです。

■「使い古された技法」について

カマ 質問を返します。アラーキーはフレーミングだけが写真家の特権だ、みたいなことをいい、逆に最近の写真家の多くは「構図とか、そういうちっぽけな自分の美意識を被写体に当てはめるんじゃなくて、そのまま即物的に、まっすぐ撮る方がいい」みたいなことを言う人が多い。
良い構図っていうのは、たしかに歴史の多数決なんだけど、たとえばメイプルソープなんかがセルフポートレートを、ものすごく革命的な構図で撮ったりしても、次の瞬間に「メイプルソープ風」というスタイルにカウントされてしまう。そうやって、破壊するつもりでも、やっちゃったらその陣営に新たに加えられてしまうというジレンマがあり、で、みんながみんな「ぶっきらぼうにそのまま」だとか、「あえてノーファインダーで、フレーミング自体を避ける」方へ行ってしまう。
ピントに関してもそうで、ピントを浅くして、合っていない部分との差違で遠近感を表現する、という、最初は仕方なしに(だって写真は二次元だから)編み出した技法が、いつのまにか使い古されてしまって、変に叙情的な意味を帯び、最近の作家に避けられるようになってしまった。最近はみんな猫も杓子もパンフォーカス。
結局構図といい、フォーカスといい、昔から蓄積してきた「技法」を、「使い古されたもの」として忌避する傾向がありますよね。これに関しては中村さんはどうお考えですか?

中村 結局、アラーキーが言っている事がもっとも的確なのでは、と思います。
「フレーミング」(私は写真家の『目』と言ってますけど)とは、写真家がどう見て、どう撮って、どう見せるかっていうことそのものだと言ってるんでしょうね。
だから、どんな技法・手法を使おうと、写真家の目がそうなっているなら仕方が無いんでしょう。写真家という、どうしても外せないフィルターを通してしか写真作品は出てこないってことですかね。使い古された技法・手法を避けたがる作家の心理は、よく解ります。いちおー作家のつもりですから(笑)
でも最近は、殆んど避けませんけどね。自分が使える技法・手法に、手垢の付いてないものなんて無いですから。

■カナシサについて

カマ こうやって、二人展のテーマのヒントを探すために、無理矢理に中村さんを質問攻めにして「言葉」を引き出そうとしているわけですが(笑)、正直、言葉が先にあって、それをよりどころにして写真をひねり出す、という方法は、ほんとにそれでいいのかな、とも思います。
僕自体は、まず何らかの「枷」をかけて、その枷の範囲内で自分の「写真を撮る力」みたいなものを強制的に絞り出す、みたいなことを今ままでやってたので、そういう風に方法論が先に立つ写真も面白いと思うけど、でも写真の力ってそういうのばかりじゃないぞ、とも思ってしまうのです。

中村 自分も方法論先行型ですし、写真の力に対して思うところには大いに共感します。前に、写真をコトバ的なものと捉えているとお話しましたが、そのコトを生じさせているモトは、かなり気障ったらしくて恥ずかしいんですが「愛しさ(カナシサ)」ではないかなぁと思っています。
で、写真行為でそのカナシサを追求していくと、写真家自身が身動きできなくなる、壊れてしまうというところまで行ってしまうんではないかと。
それを回避するべく、便宜的に方法論を先行させたり技術・技法にこだわったりするっていう考え方は、ちょっと行き過ぎでしょうかね?
で、今回の二人展、私も今までの方法論で写真をひねり出していくのは、チョッと苦しいなと感じています。ですが、このやり方以外となると、とんでもなく険しい道しか残らないのでは? という恐れも感じています。

カマ とても参考になります。「コトノハ」「カナシサ」等の語彙から滲むものを僕なりに消化して、撮ってみようかと思います。

■時間・瞬間について

中村 「写真は瞬間の芸術である」「写真は撮影された時点で過去の事象である」とよく言われます。
私はこういう写真の捉え方があまり好きではないのですが、カマウチさんは時間と写真の関係について、どのように考えていますか?

カマ 瞬間、って、本当はないでしょ。常に流れてる時間の、その一点を取り出すってことは、現実世界では不可能なわけで、瞬間ていうのは過ぎた時間を区分するための利便的なワンクリックでしかないわけですよね。
その取り出せない「瞬間」(厳密には「瞬間」じゃないけど)が、印画紙に写っている、という事象自体は、とてもスペクタクルだと思います。ていうか、もしかして「瞬間」って、カメラが発明されて高速シャッターを切れるようになってから発明された概念だったりして、なんて思います。
普段僕らの中を流れている時間とは別の論理の時間がそこへ写るわけでしょ。
いや、そうか、今僕らは線状の時間を生きているように思えるけど。実は「過去」は全部、線じゃなくて点の集積ですもんね。そこから「流れ」は消え去るわけだから。
てことは、現在「線」だと思っている時間も、実は「線」なんかじゃないって話になるんですけどね。ややこしい。
写真にしてしまえば、過去に序列はなくなってしまう。フリードランダーの『family』を見てそう思った、ということを前にHPに書きました。
過去の写真は、その時系列をシャッフルしても見るに堪える。30年前のフリードランダーと、2年前のフリードランダーを並べても、そこにフリードランダーによく似た彼の息子の成人した写真を並べても、違和感を感じない。
そういう「過去の写真」は、写真になった途端に現在生きている「線」(と僕らが思っているもの)から離脱してしまう。点の集積になるんだと思います。
「写真は撮影された時点で過去の事象である」というのは、だからまぁ、あたりまえといえばあたりまえの話で。
「写真は瞬間の芸術である」ってのは、あまり意味のない言辞ですね。

中村 写真と時間については、何だか世間一般で言われているような事は胡散臭いなって思っています。だから、カマウチさんの意見には共感大であります。
諸星大二郎の『孔子暗黒伝』に、時間を「時間子」という粒子構造でとらえるとエネルギーそのものであると書かれていました。チョッと気になってその事をいろいろ調べてみたんですけど、結局、彼がどこからこの説を引っ張ってきたのかわからなかったんですけど、粒子とエネルギーという語が光や銀粒子を連想させて、チョッと面白いと思いました。とにかく、一定のベクトルを持つ線的次元での時間の捉え方には違和感があるし、その上で写真を考えるのは、私は嫌です。

■写真とコトバ

中村 カマウチさんは「写真」と「コトバ」をどんな風に捉えていますか?

カマ 基本、写真に言葉は不要であると思ってます。使い古された言い方で申し訳ないけれども、言葉で語れないものを撮ってるんだ、というつもりです。
いいや、それじゃ駄目だ、現代のアートはコンセプトを言葉で語れなきゃ駄目なんだ、と言われても、誰が決めたんだそんなもん、というしかありません。
ただ、前にブログでも書いたように、写真の後ろに、千語万語の言葉が尽くされている写真じゃないと駄目だ、と思います。たとえばロバート・フランクの、悲鳴のような文字が刻まれた写真に胸を揺すぶられない人は写真なんか撮らなくてもいいんです。
ただ、中村さんの言ってた写真=事の端という、撮影者ー被写体ー鑑賞者の関係性についての考えは、とても美しいと思いました。「ことば」がそういう役割にとどまる限り、写真にとって有益なものとして存在できるのかなぁと思いました。

中村 養老猛司は「言葉は現実の世界と全く関係ない。その事を判っていないのは、日本人だけだ。だからオレオレ詐欺なんかに騙される」と言っていた。
自分達が普段に使っている日本語という言語は、コトノハという現実世界との関系性、一体性をより強く感じさせる気がします。
言葉が現実世界と無関係な訳は無くて、どこの国、どこの言語でも結びついているはずなんだけれど、その関係は「意味」だけにあるのか、それとも「コト」という関係そのものにあるかで、ちょっと結びつき方が変わってくるような。
カマウチさんが「言葉で語れないものを撮っているんだ」というのは、「写真というコトバで表しているんだ」って事なのかなって思います。意味をわざわざくっつけたりしないんだぞって。
写真に言葉をくっつけるというのは、写真に意味をくっつける、写真に「カタリ」をつける、「騙り」をつける事だと私は思っているのですが、でも、それはそれで別に悪いことでも無いとは思います。
写真がコトバであるなら、そういうものもくっついてくるかな、くらいの感覚です。
上手く全てを騙り通せるならば、それは写真にそれだけの力があるのでしょう。
その騙りで不幸を呼んでは勿論いけないんですけどね。

■エントロピーと叙情

中村 タイトル候補。「エントロピー」ってどうですか?

カマ エントロピー=無秩序度、ですね。時間は流れではない、ということから考えていて、流れというと水平方向を考えるけど、流れでないなら何なんだ、というと、まず考えつくのが鉛直方向。沈殿とか蓄積とか積層とか降下とか。散って拡散して点になって落ちる、という風に考えたら、ははは、まさに「沈降速度」やんか(笑)福永君の言語センスって、今さらながら凄いなぁと。
時間が鉛直方向に移動すると、沈殿でも蓄積でも沈降でも、どうしてもノスタルジックな味付けを帯びそうだけど、じゃあ水平でも鉛直でもない方向はというと、霧散、拡散、遠心分離。繋がりがほぐれていくさま、つまりエントロピー。
自分を更新することが写真の目的、みたいなことをこないだ書きましたが、更新して、どんどん古くさい繋がりを解く方へ解く方へと持って行きたい、つまりエントロピーなんだけど、本当にそんな新しい方へ、ずっと進みたいのか、というと、本当にそうなんだろうか。
古くさい繋がりって何か、というと、たとえば「叙情」という言葉が浮かびました。捨てたいものを、仮に「叙情」と名付けると、結局僕らは「叙情(仮)」を捨ててしまえばゴールしてしまうわけだから、更新もクソもないわけです。やっぱり「叙情(仮)」にとどまりたいくせに、古い叙情を嫌悪する。エントロピー方向へシバリを解きたい気持ちと、叙情に足を取られるその間でもがいてるんかなぁ、と思いました。叙情を捨てたいんじゃなくて、新しい叙情を探りたい、という気持ち。いや、叙情ごと投げてしまえ、という気持ち。再構築と、無秩序化。この間で揺れてるのが、写真なのかなぁ、って。
じゃあエントロピーだけじゃなくて「エントロピーと叙情」でどうですか?
本当は「叙情エントロピー」でどうだ、と思ったんだけど、なんか椎名林檎みたいだし(笑)

中村 物理学的には、物質が融解するときにはエントロピーが増大します。「叙情」は写真の状態を変化させる重要な要素(エネルギー)としてあるわけで、その変化のせめぎ合いの頂点を融解点とみるならば、こんなタイトルも有りかなって思います。
しかし「叙情(仮)」っていうのは、なかなか面白いですね。なんだか写真の表面上に係る「みせかけの力」みたいです。この「みせかけの力」は、実は写真そのものには係っていなくて、撮影者、被写体、鑑賞者に係っている位相の違う力って感じです。

カマ どんどん「叙情」って言葉にひっかかってきました。クドいから(仮)はとっちゃって「叙情」でいいんじゃないですかね。やっぱりあっさりしすぎだから何かくっつけたいというなら「叙情写真」? アラーキーぽくて、しかも意味なくて、いい感じ(笑)。「エントロピーと叙情」もやっぱり捨てがたいですが、これは拡散系ね。もしくは拡散させずに沈殿させるなら「重力と叙情」。シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』をややパクってる、というのは内緒です。

中村 我々は拡散系でいきましょう。椎名林檎的「叙情エントロピー」も捨てがたいけど、「叙情写真」かな。文字は「叙情寫眞」にしましょう。

カマ 決定です。

(http://d.hatena.ne.jp/kamauchi/)


安友志乃が「美術史年表を買ってこい。で、今自分がこの年表のどこに立っているのかを考えろ」(大意)と書いていたのに、最初はいたく感動したものだが、最近「美術史」で括るのはどうなんだろう、とちょっと疑問に思っている。シャーロット・コットン『現代写真論 コンテンポラリーアートとしての写真のゆくえ』(晶文社)を読んだのだが、そもそもこのコンテンポラリー・アートというやつに「写真」はどこまで歩調を合わせなければいけないのだろう。ま ずコンセプトありき、は昨今の流行りみたいなもので、ああいう数量を一気にまとめて紹介する本なので当たり前かもしれないけれど、言葉で語られるコンセプ ト云々のつまらなさに、要約とはいえ少々唖然とする。みんながみんなそんなわかりやすいことをわかりやすくするために写真撮ってるわけではあるまい。もっ と、得体の知れない、言葉で説明できない何かを撮りたくて撮ってるんじゃないのかな。言葉で表現できることは言葉で語ればいいのでは、と思うのは 古いのだろうか? 僕は写真も言葉も好きだから、半端にごっちゃにされると、双方に失礼な気がして嫌なのである。もちろん有意義な融合というのはあるし、 うまくいってさえいれば感動は倍加するのだけれど。なんだか「現代アート」の列に加えてもらうために、そんなにまで無理して理屈をこねなくてはいけないの だろうか。僕は「写真」が自らを恥じて卑下して「いえいえ、写真と申しましてもわたくしは・・・」と百千万語の言い訳をかましているようにしか思えない。 何を恥じているのだろう?なんらかの思想を語るために写真を使う。思想を目に見えるものにするために写真にする。それは「新しい」写真の人たちが馬鹿にする「マグナム的ドキュメント写真」と同じではないか、と思ってしまう。「何か」を説明するために写真を使う、という意味で。写真は写真としてしか語れないものを撮りたい。そうとしか思えない僕は青臭いのかしら。青臭くてけっこうだが。ええ、青臭いよ僕は。

安友志乃が「美術史年表を買ってこい。で、今自分がこの年表のどこに立っているのかを考えろ」(大意)と書いていたのに、最初はいたく感動したものだが、最近「美術史」で括るのはどうなんだろう、とちょっと疑問に思っている。
シャーロット・コットン『現代写真論 コンテンポラリーアートとしての写真のゆくえ』(晶文社)を読んだのだが、そもそもこのコンテンポラリー・アートというやつに「写真」はどこまで歩調を合わせなければいけないのだろう。
ま ずコンセプトありき、は昨今の流行りみたいなもので、ああいう数量を一気にまとめて紹介する本なので当たり前かもしれないけれど、言葉で語られるコンセプ ト云々のつまらなさに、要約とはいえ少々唖然とする。みんながみんなそんなわかりやすいことをわかりやすくするために写真撮ってるわけではあるまい。もっ と、得体の知れない、言葉で説明できない何かを撮りたくて撮ってるんじゃないのかな。
言葉で表現できることは言葉で語ればいいのでは、と思うのは 古いのだろうか? 僕は写真も言葉も好きだから、半端にごっちゃにされると、双方に失礼な気がして嫌なのである。もちろん有意義な融合というのはあるし、 うまくいってさえいれば感動は倍加するのだけれど。なんだか「現代アート」の列に加えてもらうために、そんなにまで無理して理屈をこねなくてはいけないの だろうか。僕は「写真」が自らを恥じて卑下して「いえいえ、写真と申しましてもわたくしは・・・」と百千万語の言い訳をかましているようにしか思えない。 何を恥じているのだろう?

なんらかの思想を語るために写真を使う。思想を目に見えるものにするために写真にする。それは「新しい」写真の人たちが馬鹿にする「マグナム的ドキュメント写真」と同じではないか、と思ってしまう。「何か」を説明するために写真を使う、という意味で。
写真は写真としてしか語れないものを撮りたい。そうとしか思えない僕は青臭いのかしら。青臭くてけっこうだが。ええ、青臭いよ僕は。


下半分、橋の影か何かに見えるでしょうが、実はライカの幕速不良による画面半分アンダー。
さよならM4。明日からは棚の飾り。

下半分、橋の影か何かに見えるでしょうが、実はライカの幕速不良による画面半分アンダー。

さよならM4。明日からは棚の飾り。