kamauchi hideki

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表面以外

写真っていうのは表面しか写らない。

人の「内面を写す」とか、そういう甘っちょろいことを考えてはいけない。

写真ってのはそういう大層なものではない。

大体内面って何だよ、とか思うし。

そんな、写真一枚で「表現」できてしまうような薄っぺらい人なんていない。

いるかもしれないけど、そんな人の写真が面白いかどうかわからない。

写真は瞬間しか写らないが、人って瞬間瞬間を拾って語れるものではない。そういう無数の瞬間の連続であり、寄せ集めであり、混沌であり、総体であり、部分である。

そんなわけのわからないものの、ほんの一瞬を切り取っただけのことに、どうしてそんなに過剰な意味づけを求めるのか。

瞬間なんて、たかだか瞬間でしかないんだぞ、ということを確認したくて撮るのが写真なんじゃなかろうか。

と、常々思っているんだけれど。

・・・・・

「そうだよ写真は表面しか写らないんだよ。だからその表面を頑張って綺麗に撮ってあげるのよ」

と何かでアラーキーが言ってた。

・・・・・

杉浦日向子の、死ぬ数ヶ月前のポートレートがある。

撮ったのはアラーキー。

杉浦日向子の「表面以外」が写ってるような気がしてしかたがない。

いや、写っている。

100年に1枚の写真だと思う。

凄すぎて、他の杉浦日向子の写真が後ろへ吹っ飛んでしまう。

杉浦日向子といえば、もうこのポートレートしか思い出せなくなってしまう。こういうのが写真の怖さなんだな、と思う。

でも、アラーキーにお礼を言いたい。

こんな凄いポートレートを残してくれて、本当にありがとう。

*(白水社『写真ノ話』、スイッチ・パブリッシング『空事』等に収録)

(初出:OK, Darling. But What is Photograph?











OK,Darling. But What is Photograph? (3)

コンセプト、だとかテーマだとか、そういうのは苦手です。
すべてアートは言葉で説明する必要がある、というのが、そもそも違うと思うのです。

写真ギャラリーに行くと、「作家さん」が聞きもしないのにテーマを語ってくれたりする。
「他者とのナントカ」とか「関係性の虚構がドウタラ」とか、なんかさぁ、タシャとかキョコウとか、無理矢理いかめしい言葉探してないか? なんて思ってしまうんですよね。

もちろん、写真の力を最小限の言葉が効果的に補強する、写真と言葉、双方が支え合う、理想的な関係を結べている作家も少なからずおられるのですが、写真だけ見てればかっこいいのに、余計な言葉で逆に自分の写真を狭い檻の中に囲い込んでしまってる人も多いように思います。

使い古された言い回しで恐縮ですが、やっぱり、言葉で説明できないものを写真で語りたいんです。
それじゃ駄目です。作家は作家の言葉で、作品を説明できなければいけないのです、とたとえば安友志乃なんかが言う。
そうだろうか。
写真に言葉って、本当に必要だろうか。

写真に言葉は不要ですが、写真を見ればどれだけの言葉を写真に向かってぶつけてきた人かはわかります。費やされた言葉の総量が、ちゃんとプリントに出ると思います。
それをわざわざ言語で被せる必要があるだろうか。

・・・・・

本当に素晴らしい写真には言葉なんか必要ない。
ロバート・フランクの写真、ヨゼフ・クーデルカの写真を、僕は大好きだけれども、別に彼らの写真集の英文解説を一所懸命に読まなくても、写真のうしろにちゃんと千語万語の言葉が尽くされている。

そういう写真を見たいし、できれば自分で撮りたいと思うのです。

OK,Darling. But What is Photograph? (2)

モノクロ写真とは何か、という答えを、僕はまだ出せていません。
このデジタルのご時世に、なぜまだモノクロ写真なのか。

これは、考えれば考えるほど、自分に不利な答えしか出てこないのです。
自分の考える写真は、どう考えても、モノクロである意味がない。

モノクロであることに甘えているのではないか。
手仕事、とか、そういう響きのいい言葉で自分を騙しているのではないか。

保存性、というのも言い訳にすぎません。この顔料プリンターのある時代に。
バライタ紙の物質感、といったところで、それが唯一無二の選択肢であるとも思えません。
そして、物質的な質感だけで写真の良し悪しを語るのは嫌いだ、と常々言ってる手前、自分の中での整合性もとれません。

・・・・・・

自分の中ですでに予感としてあるのは、いつか遠からず、銀塩を捨ててデジタルカメラを持つようになるだろうということ。
感材がどうせ手に入らなくなるだろうから、というのもあります。
銀塩感材という「物質的」なものに対するノスタルジアだけで写真を撮っているのではない、という思いもあります。
同じことをデジタルカメラで出来ないわけがない。多少のプロセスと、気構えが違うだけではないか。

ならば今どうして銀塩で、しかもモノクロなのか。
写真の歴史に対する敬意であるのか。
昔からの技術に対する興味と憧憬?

液温と露光時間、コントラストフィルターや印画紙の号数で刻々と表情を変える銀画像の生き物のような姿に対する興味であり、それ以前に暗箱の中での光の受け渡しと結像のドラマの一番シンプルな結論であるモノクローム画に対する興味である。
また、そういった手仕事の技術、経験といったものが写真に何かを付与できるという思いこみ。

それは一面、たしかにあるだろうし、否定しないけれども、同時にそれが一面錯覚にすぎないのではという認識も、ちゃんとあるのです。

・・・・・・

そういう風に思いながらも、今はその答えを先延ばしにしている状況です。
もちろん、銀塩感材の歴史が終焉を迎えようとしているからです。

自分に必要であるかどうかは、今はわざと判断保留にしておくと決めました。単純に感材の違いであるという、それだけの意味からすれば、それが使えなくなるなら先に使っておけ、という、本論とはズレた理由からの枷をかけたことになります。

デジタルカメラでモノクロの写真を撮る意味を、少なくとも僕は見いだせません。デジタルカメラを使うようになれば、飯沢耕太郎がいうようにモノクロは一つの特殊表現という地位しか与えられなくなるでしょう。
特殊表現という地位に押し込められれば、余計に「モノクロである理由」が必要になります。

モノクロで写真を撮るという行為が背負ってきた意味をちゃんと解くことができないまま、感材がなくなるという外からの要因によってその存在が消えようとする。
その前に、少なくともモノクロ写真について考えることは必要だと思います。
そして考える時間は、どうやら今しかなさそうなのです。

これが僕が暗室でモノクロプリントを作る、今現在の理由です。
非常に消極的な理由に聞こえますか?

いずれ捨てなくてはならないことがわかっていて、そのための助走なのだ、とも言いくるめることが出来ます。
冷静なフリをして書いていますが、本当は胸が痛いのです。
胸が痛い理由も、写真の謎として問うていかねばならんのです。