January 2012
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風景とは何か。いつもそう考えながら風景を撮っている。 結局風景とは見られる前からそこにあるのではなく、僕が見たことによってそこに立ち現れる、世界と僕との共謀の産物である。 光の原理的なことを考えれば、僕らは光源の発した光を何かが全方向へ反射する、そのうちたまたま僕らに向かって直進してくる光だけをとらえて視像を得ている。 風景なんてたかだかそれだけのことであるとも言えるし、僕らが触れることの出来ない広がりをその後ろに持つのだと考えることも出来る。 全方位に逃げていく、我々の網膜に直進しない風景のことを考えてみる。自分の網膜と、写真機の網膜に相当するフィルム面に、たまたま届いた光と、その後方にある届かなかった多くの光について考える。...
November 2011
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味覚
最寄りのT駅の北側、賑やかな南側とは対照的に場末感全開の寂しい商店街(? と言っていいかどうか)の一角に、そう、古いといっても創業明治何十何年、みたいな風格があるわけじゃなくて、中途半端な、創業推定昭和50年、って程度の古さの大衆食堂がある。 たまに前を通るたび、この「中途半端な古さ」が気になって、変色した蝋細工の「焼きめし 500円」にソソられ、いつか機会があれば食ってやろうと思っていた。 風邪の症状がちょっと変わってきたので今朝も病院に寄って薬を替えてもらったのだが、病院と薬局で順番を待つうちに昼近くになってしまい、ちょうどいい、早く薬も飲みたいし、あの食堂で焼きめしを食ってやろうと、開店直後の食堂に入る。 和・洋・中なんでもありのメニュー構成で、厨房の中には推定50代後半の親爺が一人、ホールにはその母とおぼしき80歳くらいの婆さんが一人。 迷いなく「焼きめし」を頼む。...
雨の日
先日、雨の日の朝、女子学生たちが10人ほど、全員学校指定らしい同じグレーに赤のラインのレインコートを着て自転車に乗って僕を追い抜いていった。暗い 雨空の下、続々と通過していくグレーの集団の後ろ姿が妙に幽玄で映像的にとても美しく、撮ろうと思ったが、雨なので鞄にカメラをしまっていて撮れなかっ た。
雨にけぶって消えていく背中を見送りながら、最初は「写真には撮れなかったがとてもカッコイイ映像を見た」という満足感があった。が、その後 ふつふつと、写真に撮れなかったことに対する悔しさが頭をもたげてきた。この悔しさは写真的な功名心なのではなく、あのかっこいい映像を誰とも共有できな い悔しさなのだと思う。
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ガリョウテンセイ
小学生の頃、僕はわりと絵が上手かった。 田舎に帰った折、親戚のおじさんが若い頃描いたという映画スターの似顔絵(きちんとしたデッサン)を見て対抗心を燃やした小学校6年生の僕は、手近にあった雑誌に出ていた仲代達矢の写真を見てノートに鉛筆でデッサンした。 かなり時間を掛けて、自分では上手く描けたと思ったが、それを見た祖父が「あかんぞその絵は。眼が死んどる」と言う。いやそんなことはない、どこから見ても仲代達矢そっくりの、ちゃんとしたデッサンではないか、と僕は納得がいかない。 「学校でガリョウテンセイって言葉を習わんかったか? なんか上手く描いたような絵やが、眼がな、死んどるわ。そこがいかんわ」 た ぶん絵の技術的なことなど祖父にはわからなかっただろうが、おそらくその仲代達矢の絵には、半端な器用さに慢心したクソガキのいやらしさのようなものが滲...
September 2010
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レッドホットチリペッパー
種村季弘『書物漫遊記』(ちくま文庫)を読んでいたら、こんな話が出てきた。 種村の友人のインド文学者松山俊太郎という人が、普段から荒行のように唐辛子を摂取する人で、東京で一番辛いというインドカレーの店で「こんな甘ったるいのが食えるか!」と文句を言った。するとコックの目が怪しく光り、「ようがす」と奥へ消えた。そして出てきた新しいカレーを松山はきれいに食べ終わってから「ありがとう、これがカレーです」と言い残して店を出たのだが、あとで聞いてみると松山は「いや、実はさすがにあのときは心臓が止まるかと思ったよ。それよりあれから一週間位、耳鳴りがガンガンして止まらなくなっちゃったのには吃驚したね」...
July 2010
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『叙情寫眞』タイトル会議(中村浩之+カマウチヒデキ)2009.9
■写真は「表面以外」も写せるか カマ 写真は「表面以外」も写せると思いますか? 中村 写せると言えば写せるし、写せないと言えば写せないのでは。私は写真をコトバ的なものととらえています。撮影者、被写体、鑑賞者、etc.の間に生まれる関係=コトの端部=ハが、写真ではないかと。支持体上に現像・定着された画像は、それだけでは唯の単語のような物でしょう。むしろ写真における「表面」以外は、写真の内には無くて、コトバを成すヒト・モノ・コトの内に生ずるのでは? 一語に何らかの期待を込めて放つ事で、それが誰かに伝わるならば、写真にも同様なことが言えるような気がします。 カマ...
June 2010
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May 2010
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April 2010
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March 2010
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わかりやすい文章
完璧にコントロールされた音の粒だちの隙間から漏れ出すグールドのうめき声のように、抑制された中から「思わず」あふれ出す叙情、というものに憧れる。 そう、憧れる。 憧れる、ということは、それができていないということだ。 抑制どころかダダ漏れ。自分は自分が思う以上に、手垢のついた意味で「叙情」的だ。 制御できないなら、どうせ漏れてしまうのならば、漏れ出た叙情でしか語れないものもあるかもしれないと考える。浅いピントを儚く使う。暗部のトーンで切なさを語る。高い彩度で情感を煽る。 そういうふうに、使い古された技法を避けない。使い尽くされた常套句で、しかしできるなら新しい叙情を探りたい。 今回はそういう写真を撮りました。 ・・・・・・ http://www.flickr.com/photos/kamauchi/sets/72157622222663455/...
February 2010
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僕の写真って、2006年頃が一番面白かったと自分で思う。なんか、ピークが過ぎた感はひしひし感じるのですよ、正直な話。でも、坂を下ってからが勝負だぜ、とも思うんだな、これが。
September 2009
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いのちを学ぶ
久しぶりにポレポレタイムス社のサイトを見に行ったら、本橋成一さんのエッセイ(長野かどこだかの地方新聞に連載していたもの)を収録していたページが削除されていた。サイトのリニューアルで整理されてしまったらしい。 以前、ダウン症の娘さんについて書かれた感動的な文章を読んで大いに感銘を受け、それからもたまに読み返していたのだが、ウェブサイト上のページだけに、いつ削除されて読めなくなるかわかったもんじゃない。そう思ったので、あらかじめ全文をコピーしてハードディスクに入れておいた。とっておいて良かったー。 以前にもリンクで紹介したので読んだ人もいるかもしれないが、もしまだ読んだことがないという人のために、その文章を無断掲載します。すみません。...
April 2009
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February 2009
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ギャラリー・マゴット主催「フォトショップ初級講座」
(09.2.10、講師 : カマウチヒデキ+川本亜矢)
カマウチが喋った部分の要旨
(事前に用意していたメモより編集。実際に喋った内容とは正確には一致しません)
[デジタルのせいで写真の質が落ちた?]
○写真の歴史っていうのは大体180年くらいあって、いろんな感剤が初期には使われたようですが、その歴史の大半は化合銀を使ったもの、いわゆる「銀塩」写真である。
○この銀を使う写真の時代がおそろしく長かったので写真の感剤の発達っていうのは、基本的に右肩上がり。環境問題的な側面から使う銀の量が規制されたり、という小さな逆行はあるが、粒状性をみても、感度的な話であっても、基本的には写真の感剤(印画紙やフィルムのこと)は、180年間ずっと右肩上がりに磨かれてきた。
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December 2008
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井上先生
以前にも何かの折に書いたけれど、僕は大学を2年で中退している。 正確にはとりあえず休学にして正式に学籍を抜いたのはその2年後なのだが、まぁ実質2年。 勝手に入って勝手にやめた大学の悪口を書くのも品の良い話ではないから理由はくだくだ書かないが、とにかく「合わなかった」。 だからほとんど講義には出なかったし、学校に行っても大学図書館にこもっているか、学生食堂で煙草を吸っているか。 そんな短い僕の大学生活だったが、唯一「社会思想」という講義だけは無欠席で通った。 講師は井上和雄先生という、僕の通っていた某O大の教員ではなく、神戸商船大学の経済学教授だった方だが、なぜか週1回、O大で社会思想の講義を持っていた。 経済学の教授がなぜ社会思想の講義なのかも面白いが、アダム・スミスに関する著作があるので、そのあたりのオーバーラップする分野が本来の専門のようだった。...
プロの書店員
かなり前の話だが、本を注文するためにジュンク堂三宮店のカウンターに行った。 まだ地下に売り場があった頃だから、もう随分昔の話か。10年くらい前かもしれない。 書名、著者、出版社を書いたメモを持っていたのだけれど、カウンターの女性の店員さんが「どんな本ですか?」と聞くので、ついメモを見せる前に口で簡単に書名を喋った。 「エリザベス・スティーブンソンって人の本で、ラフカディオ・ハーンの評伝なんですが。ええと、出版社がコウブンシャ」 僕がメモを渡す前にその女性の店員さんは手元のメモにサラサラと、 「スティーブンソン、ハーン、恒文社」 とメモをとり、 「一応在庫を確認します」 と一直線に、ためらいもせず、僕がもといた方向へ歩いていった。 ...
September 2008
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いい医者って?
小さく生まれたヒナコを5ヶ月の入院中ずっと診てくれたC病院小児科のY医師に、僕は全幅の信頼を寄せている。そういう態度はたぶん、顔にも表れるのだろうと思う。
ヒナコの足の治療(ヒナコは左足の先天性脛骨列部分欠損という珍しい症例なのだ)のため大阪のB病院に紹介状を書いてもらおうとY医師を訪れたとき、僕の「B病院のK先生って、すごく評判を聞きますけど、そんなに凄い先生なんですか」との質問に、Y先生は以下のように答えた。
・・・・・・
その医師が「ええ先生かどうか」っていう判断は、人によっていろいろあるでしょう。
たとえば僕(Y医師)はええ医師かどうか。
僕は、患者さんからは気さくで話しやすいとか、そういう風に言われますけど、これは僕の師匠にあたる先生の影響をね、やっぱり受けるんですわ。僕の師匠がこういうタイプやったんです。知らんうちに話し方とか伝染するんやね。
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July 2008
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薬棚には薬が必要
島田紳助の司会でやってる『深イイ話』(日テレ)を、半分アホらしいと思いながらもたまに観ている。 アホらしい、というのは、出展のはっきりしない話を視聴者からの公募で集めてたれ流しで放送して、なんか責任逃れをしているようなユルさに対しての批難である。 たとえばスナフキンが「人を崇拝しすぎちゃいけないよ。かえって自分の心が不自由になるから」なんてセリフを言った、う~ん、深くてイイ話だ、心のレバーをグイッ・・・まぁ、スナフキンのこのセリフはたしかに良いけれど、どうしてこれを視聴者からの投稿という形で伝えねばならないのか。どうせ伝えるならば、このセリフは第何回のムーミンアニメの第何話で、もしくはトーベ・ヤンソンの原作の第何巻で、どういう場面でスナフキンが誰々に向かって言ったセリフである、というフォローは当然必要だ。...
June 2008
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表面以外
写真っていうのは表面しか写らない。
人の「内面を写す」とか、そういう甘っちょろいことを考えてはいけない。
写真ってのはそういう大層なものではない。
大体内面って何だよ、とか思うし。
そんな、写真一枚で「表現」できてしまうような薄っぺらい人なんていない。
いるかもしれないけど、そんな人の写真が面白いかどうかわからない。
写真は瞬間しか写らないが、人って瞬間瞬間を拾って語れるものではない。そういう無数の瞬間の連続であり、寄せ集めであり、混沌であり、総体であり、部分である。
そんなわけのわからないものの、ほんの一瞬を切り取っただけのことに、どうしてそんなに過剰な意味づけを求めるのか。
瞬間なんて、たかだか瞬間でしかないんだぞ、ということを確認したくて撮るのが写真なんじゃなかろうか。
と、常々思っているんだけれど。
・・・・・
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April 2008
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OK,Darling. But What is Photograph? (3)
コンセプト、だとかテーマだとか、そういうのは苦手です。 すべてアートは言葉で説明する必要がある、というのが、そもそも違うと思うのです。 写真ギャラリーに行くと、「作家さん」が聞きもしないのにテーマを語ってくれたりする。 「他者とのナントカ」とか「関係性の虚構がドウタラ」とか、なんかさぁ、タシャとかキョコウとか、無理矢理いかめしい言葉探してないか? なんて思ってしまうんですよね。 もちろん、写真の力を最小限の言葉が効果的に補強する、写真と言葉、双方が支え合う、理想的な関係を結べている作家も少なからずおられるのですが、写真だけ見てればかっこいいのに、余計な言葉で逆に自分の写真を狭い檻の中に囲い込んでしまってる人も多いように思います。 使い古された言い回しで恐縮ですが、やっぱり、言葉で説明できないものを写真で語りたいんです。...
OK,Darling. But What is Photograph? (2)
モノクロ写真とは何か、という答えを、僕はまだ出せていません。 このデジタルのご時世に、なぜまだモノクロ写真なのか。 これは、考えれば考えるほど、自分に不利な答えしか出てこないのです。 自分の考える写真は、どう考えても、モノクロである意味がない。 モノクロであることに甘えているのではないか。 手仕事、とか、そういう響きのいい言葉で自分を騙しているのではないか。 保存性、というのも言い訳にすぎません。この顔料プリンターのある時代に。 バライタ紙の物質感、といったところで、それが唯一無二の選択肢であるとも思えません。 そして、物質的な質感だけで写真の良し悪しを語るのは嫌いだ、と常々言ってる手前、自分の中での整合性もとれません。 ・・・・・・ 自分の中ですでに予感としてあるのは、いつか遠からず、銀塩を捨ててデジタルカメラを持つようになるだろうということ。...