kamauchi hideki

main site
Flickr
weblog

mail to :
kamaneko@kpb.biglobe.ne.jp

OK,Darling. But What is Photograph? (2)

モノクロ写真とは何か、という答えを、僕はまだ出せていません。
このデジタルのご時世に、なぜまだモノクロ写真なのか。

これは、考えれば考えるほど、自分に不利な答えしか出てこないのです。
自分の考える写真は、どう考えても、モノクロである意味がない。

モノクロであることに甘えているのではないか。
手仕事、とか、そういう響きのいい言葉で自分を騙しているのではないか。

保存性、というのも言い訳にすぎません。この顔料プリンターのある時代に。
バライタ紙の物質感、といったところで、それが唯一無二の選択肢であるとも思えません。
そして、物質的な質感だけで写真の良し悪しを語るのは嫌いだ、と常々言ってる手前、自分の中での整合性もとれません。

・・・・・・

自分の中ですでに予感としてあるのは、いつか遠からず、銀塩を捨ててデジタルカメラを持つようになるだろうということ。
感材がどうせ手に入らなくなるだろうから、というのもあります。
銀塩感材という「物質的」なものに対するノスタルジアだけで写真を撮っているのではない、という思いもあります。
同じことをデジタルカメラで出来ないわけがない。多少のプロセスと、気構えが違うだけではないか。

ならば今どうして銀塩で、しかもモノクロなのか。
写真の歴史に対する敬意であるのか。
昔からの技術に対する興味と憧憬?

液温と露光時間、コントラストフィルターや印画紙の号数で刻々と表情を変える銀画像の生き物のような姿に対する興味であり、それ以前に暗箱の中での光の受け渡しと結像のドラマの一番シンプルな結論であるモノクローム画に対する興味である。
また、そういった手仕事の技術、経験といったものが写真に何かを付与できるという思いこみ。

それは一面、たしかにあるだろうし、否定しないけれども、同時にそれが一面錯覚にすぎないのではという認識も、ちゃんとあるのです。

・・・・・・

そういう風に思いながらも、今はその答えを先延ばしにしている状況です。
もちろん、銀塩感材の歴史が終焉を迎えようとしているからです。

自分に必要であるかどうかは、今はわざと判断保留にしておくと決めました。単純に感材の違いであるという、それだけの意味からすれば、それが使えなくなるなら先に使っておけ、という、本論とはズレた理由からの枷をかけたことになります。

デジタルカメラでモノクロの写真を撮る意味を、少なくとも僕は見いだせません。デジタルカメラを使うようになれば、飯沢耕太郎がいうようにモノクロは一つの特殊表現という地位しか与えられなくなるでしょう。
特殊表現という地位に押し込められれば、余計に「モノクロである理由」が必要になります。

モノクロで写真を撮るという行為が背負ってきた意味をちゃんと解くことができないまま、感材がなくなるという外からの要因によってその存在が消えようとする。
その前に、少なくともモノクロ写真について考えることは必要だと思います。
そして考える時間は、どうやら今しかなさそうなのです。

これが僕が暗室でモノクロプリントを作る、今現在の理由です。
非常に消極的な理由に聞こえますか?

いずれ捨てなくてはならないことがわかっていて、そのための助走なのだ、とも言いくるめることが出来ます。
冷静なフリをして書いていますが、本当は胸が痛いのです。
胸が痛い理由も、写真の謎として問うていかねばならんのです。

OK,Darling. But What is Photograph? (1)

なんだか写真以外の話がしばらく続いたので、たまには真面目に写真のことを考えてみようかと。
大体どうして僕は写真を撮るのか。

・・・・・・

自分でわかってることは、過去に撮られたある種の写真たち、世界中の、有名無名な写真家に撮られてきた数々の写真があって、何とも説明の出来ない、得体の知れない魅力と謎を持ってそこに屹立しているということ。

森山大道の三沢の犬でもいいし、クーデルカの楽器を弾くジプシーの写真でもいい。フリードランダーが我が娘を写したモノクロでも、ダイアン・アーバスの障害者施設の写真でもいい。

今まで僕の度肝を抜いてきたある種の写真たち、その度肝の抜かれ方を、僕はうまく言葉で説明できないのですが、圧倒的な力を、抜かれた心臓の痛みで覚えているわけです。

しかしさらにびっくりすることには、そういう写真の力を(残念ながら常にではないのですが、ごくまれに)自分の写真からも感じることがあるということ。
自分の撮った幾枚かの写真の中にも、撮った本人の心臓を抜いていくような、そういう力を帯びたものが、まれとは言いながら、確実に存在するわけです。

これはよく考えたらおかしなことで、しかしもっとよく考えたら別におかしいことでもないのかもしれない。
別 に僕に特殊な才能があるわけでも何でもない。そういう写真が撮れたとして、そんなのまぐれだとか、偶然だとか、そう言われても別にかまわない。というか、 偶然やまぐれを味方にできるというのが写真の特性であり、むしろそういったものを味方に付けていけば、自分の現在の美意識というものを壊すものさえ作れ る、というのは、写真という表現ジャンルの、ある種特権でもあるわけです。

写真機という、自分の血肉ではない異物を使ってしか写真は撮れない、その異物が生み出す自分の美意識との微少な差異が、美意識自体を食う。
森山大道の三沢の犬は、シャッターを押す前に森山大道が頭の中で完璧に設計図を描いたそのまんまが写っているのかというと、そんなわけはない。
あるひらめきとか感応があって、写真家はカメラを向ける。ある程度の予測と、その予測に近づけるための写真機への習熟と、それがどういう露光を得てどういう画を得るかという技術的知識があって、シャッターが押される。
しかし、写真は絶対に何かを裏切るのです。
その裏切りが、時として心臓を抜くような力を持つ。不意打ちのようにそれはやってくる。

僕は小粋な言葉は使えないので、単刀直入に「写真の謎」と呼んでいます。そのまんまやん、と言わないで下さい。本当に謎としか表現しようがないのです。

そ の謎と格闘することが写真を撮るという行為の唯一の動機なのですが、その謎は踏み込めば踏み込むほど自分の美意識(と仮に呼んでいるけど、この「美意識 (仮)」自体も、自分の中の謎みたいなもんですよね)は組み替えられ変形していくわけですから、この「謎と格闘する」ということ自体の意味すら、よくわか らなくなってきます。謎が謎に食われるとでも言うか。

・・・・・

僕が撮る写真には特定の被写体というのはなくて、何か自分を裏切ってくれそうなものを探して歩いている感じ。
比較的人物の写真が多いのは、人物写真がいちばん自分の意図を裏切ってくれるからです。
人を撮ると、必ず事前に思い描いた画よりも、良くも悪くもズレてくれます。逆に思い描いたとおりに写ってしまったりしたときには、自分でまったく面白いと感じない。やはり何らかの裏切りを期待してシャッターを押している部分があるのです。

被写体というのは、正直、別に何でもいいんだろうと思います。謎に一歩踏み出すためのきっかけでしかない。
人物を撮っても、僕はもちろん、その人物写真でその人の中の何かを「表現」しようなんて露とも思っていません。撮ればその人の何かがわかるなんてのも、もちろん嘘に決まってる。

でも撮影者の、そして被写体の思惑も無視して、何かが写ることがある。その何かが写ってしまうという、写真のからくりが、僕にはとても興味深く思えるのです。