kamauchi hideki

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安友志乃が「美術史年表を買ってこい。で、今自分がこの年表のどこに立っているのかを考えろ」(大意)と書いていたのに、最初はいたく感動したものだが、最近「美術史」で括るのはどうなんだろう、とちょっと疑問に思っている。シャーロット・コットン『現代写真論 コンテンポラリーアートとしての写真のゆくえ』(晶文社)を読んだのだが、そもそもこのコンテンポラリー・アートというやつに「写真」はどこまで歩調を合わせなければいけないのだろう。ま ずコンセプトありき、は昨今の流行りみたいなもので、ああいう数量を一気にまとめて紹介する本なので当たり前かもしれないけれど、言葉で語られるコンセプ ト云々のつまらなさに、要約とはいえ少々唖然とする。みんながみんなそんなわかりやすいことをわかりやすくするために写真撮ってるわけではあるまい。もっ と、得体の知れない、言葉で説明できない何かを撮りたくて撮ってるんじゃないのかな。言葉で表現できることは言葉で語ればいいのでは、と思うのは 古いのだろうか? 僕は写真も言葉も好きだから、半端にごっちゃにされると、双方に失礼な気がして嫌なのである。もちろん有意義な融合というのはあるし、 うまくいってさえいれば感動は倍加するのだけれど。なんだか「現代アート」の列に加えてもらうために、そんなにまで無理して理屈をこねなくてはいけないの だろうか。僕は「写真」が自らを恥じて卑下して「いえいえ、写真と申しましてもわたくしは・・・」と百千万語の言い訳をかましているようにしか思えない。 何を恥じているのだろう?なんらかの思想を語るために写真を使う。思想を目に見えるものにするために写真にする。それは「新しい」写真の人たちが馬鹿にする「マグナム的ドキュメント写真」と同じではないか、と思ってしまう。「何か」を説明するために写真を使う、という意味で。写真は写真としてしか語れないものを撮りたい。そうとしか思えない僕は青臭いのかしら。青臭くてけっこうだが。ええ、青臭いよ僕は。

安友志乃が「美術史年表を買ってこい。で、今自分がこの年表のどこに立っているのかを考えろ」(大意)と書いていたのに、最初はいたく感動したものだが、最近「美術史」で括るのはどうなんだろう、とちょっと疑問に思っている。
シャーロット・コットン『現代写真論 コンテンポラリーアートとしての写真のゆくえ』(晶文社)を読んだのだが、そもそもこのコンテンポラリー・アートというやつに「写真」はどこまで歩調を合わせなければいけないのだろう。
ま ずコンセプトありき、は昨今の流行りみたいなもので、ああいう数量を一気にまとめて紹介する本なので当たり前かもしれないけれど、言葉で語られるコンセプ ト云々のつまらなさに、要約とはいえ少々唖然とする。みんながみんなそんなわかりやすいことをわかりやすくするために写真撮ってるわけではあるまい。もっ と、得体の知れない、言葉で説明できない何かを撮りたくて撮ってるんじゃないのかな。
言葉で表現できることは言葉で語ればいいのでは、と思うのは 古いのだろうか? 僕は写真も言葉も好きだから、半端にごっちゃにされると、双方に失礼な気がして嫌なのである。もちろん有意義な融合というのはあるし、 うまくいってさえいれば感動は倍加するのだけれど。なんだか「現代アート」の列に加えてもらうために、そんなにまで無理して理屈をこねなくてはいけないの だろうか。僕は「写真」が自らを恥じて卑下して「いえいえ、写真と申しましてもわたくしは・・・」と百千万語の言い訳をかましているようにしか思えない。 何を恥じているのだろう?

なんらかの思想を語るために写真を使う。思想を目に見えるものにするために写真にする。それは「新しい」写真の人たちが馬鹿にする「マグナム的ドキュメント写真」と同じではないか、と思ってしまう。「何か」を説明するために写真を使う、という意味で。
写真は写真としてしか語れないものを撮りたい。そうとしか思えない僕は青臭いのかしら。青臭くてけっこうだが。ええ、青臭いよ僕は。